2009-03-30

『概説現代の日本農業』(藤谷築次,荏開津典生 編/家の光協会)



「批判するにせよ、支持するにせよ、まず必要とされるのは正しい実態認識である」



東京で開催された第21回国際農業経済学会のために英語・日本語で同時出版された一冊。
そうそうたる面々の論文集ですが、偏りがない主張で、網羅的で、科学的に検証しうる範囲での最大限の概論を貫いていて読みやすい、という印象。戦後の農業の歩み、食糧消費の変化、農協の役割、ムラや地域社会などなど、「日本のここを理解してほしい」という海外の農業経済学者への意見が垣間見えるようで、とても勉強になりました。

印象的だったのは「工業立国である日本にとって、比較劣位になる農業はどう頑張っても衰退せざるを得ない」との主張。確かに。

一方、「なぜ日本に農業が必要なのか」については、驚くほど主張が平坦です。科学的でない印象。

きっと、学問や科学的に割り切れないところに、根底の意識があるんでしょうね。

でもそこを論理にしていくのがこれからの仕事。




2009-03-26

『私の仕事』(緒方貞子/草思社)



「コンセンサスという概念も、日本独特の捉え方をしています。コンセンサスというのは、自然に形成されるものではなく、強力なリーダーシップが引っ張って初めて、形になるものなのです」



緒方貞子氏の著作集。日記やエッセイ、スピーチなどを厳選して詰め込んだ一冊です。

冒頭は「Ⅴ 世界に出て行く若者たちへ」と題した章の抜粋。

・成長の鍵は好奇心
・現場の裁量を増やすことが、国際機関の仕事
・日本に留まっていたら、世界中で起きている事件は常に「他人事」でしかない。
・日本人はリーダーシップが欠如している
・「国際」基準と「国内」基準の別なんて、あるほうがおかしい
・言語は大事

「開発し、発展『しなければいけない』」という視点が嫌で、ものすごいドメスティックな仕事につくことになった私ですが、「他人事」になるのは恥ずかしい、ぐらいの気持ちは持っているつもりです。いや、持ち続けないと。





『なぜ日本は行き詰ったか』(森嶋通夫著, 村田安雄・森嶋瑤子訳/岩波書店)



「生活水準は相当に高いが、活動力がなく、国際的に重要でない国。これが私の21世紀半ばにおける日本のイメージである」



・・・という言葉で終わる一冊。
初版は04年ですが、今日では「行き詰った」というよりも、「行き詰っている」というほうが正しいかもしれません。

著者の森嶋通夫は、LSEの教授で、数理経済学者。
マルクス経済学を数理モデルに「翻訳」したことで知られる世界で活躍した数少ないエコノミストの一人。
もう亡くなっていますが、一時はノーベル経済学賞候補に名前が挙がったこともある方です。

日本語の新書ではこの本が最後のようで、経済学・社会学・心理学などなど、様々な領域を統合して日本経済の現状を分析しよう、というのがこの本の試み。すげえ。

内容は、「明治維新・第二次世界大戦によって歪められた日本人の思想は、(一部)国民の中に危機意識をもたらし、それが稀有な経済発展を達成した。しかし、歪められた思想は教育制度と保守的な経済体制・政治体制に反映され、そこに順応した結果、日本人は何もできない国民になってしまった。今後、日本が過去に達成された以上に繁栄するとは到底思えない。ただ、中国やアジアの他国と協力して経済圏を構築していくなら何とかなるかもね」という感じ。




思えば、04年は小泉内閣真っ盛りなのです。
今読めば普通ですが、当時これを書いたと考えると、すごい・・・というのは私の不勉強でしょうか?

本当の危機って、じわじわくるもんですよね。









『牛丼を変えたコメ―北海道「きらら397」の挑戦 』(足立紀尚/新潮社)



競争と革新。



まさにプロジェクトX(古い?)の一冊。
今はもう有名になったきらら397の開発史を辿ったノンフィクションです。

明治期より、稲作には向かないといわれ続けてきた北海道。
もともと亜熱帯産のコメを、品種改良を重ね、冷帯での生産を可能にした、そんな偉人たちの汗と涙がつまったお話。

しかし、物語はそれで終わりません。
時代は下り、生産調整開始へ。いわゆる「減反」です。いくら美味しいコメを作っても、需要がなければ売れない。。。そこで、ホクレンが考えたのが牛丼用にきららを売り出すという戦略だった(らしい)のです。

競争もなく、のほほんと過ごしてきた、といわれる戦後稲作ですが、産地&品種というまとまりで見れば、それはそれは熾烈な争いが繰り広げられてきたのだということがわかります。競争に勝って得たものは、いったいなんだったのでしょうか?








『市場の変相』(モハメド・エラリアン著、牧野洋訳/プレジデント社)




マクロを見るためにミクロ。


金融系の本第二弾。

動機は前回と一緒で、紹介されて読んだのでした。
FT(Financial Times)の"the book of the year in 2008"という有名な一冊。
著者のモハメド・エラリアンは世界最大の債券ファンドのCEO&CIO。
ハーバード基金のCEO、HBSの教員、IMF職員と「夢のような」経歴の持ち主。


――「『大転換』をどう理解し、対処するか」という問題意識で書かれた本。
投資家、政府、国際機関と多様なアクター向けに、ミクロ(個人の考え方)とマクロ(集団の現象の理解)を解説しているため、多少表現がぼやけていますが、
きっとすごく勉強して直接話を聞いたらいいんだろうなあ、という印象。

・未来を予測したいのなら、普段から数字で予測してギャップを明確にせよ
・世界経済の変化の力点は、先進国から新興国にシフトしている
・行動ファイナンス、金融、が発展分野?
・オーバーレイ戦略とテール保険が短期的に有効

世界のマクロ経済って、新しいフォーマットがあって、それを理解すれば常に理解できるものなのかと思っていたのですが、どうやらそうではなさそう。
主要なアクターを見定めて、その行動原理とアクター間の行動の交錯の中に未来があり、意外?とミクロ的なもんなんだなあ、と認識を新たにしました。

なるほど。やはりミクロだな。

2009-03-17

『資本主義は嫌いですか―それでもマネーは世界を動かす』(竹森俊平/日本経済新聞出版社)



バブルという必然と偶然。



現代の金融の世界を垣間見てみたい、という思いで手に取った一冊。

経済学部で勉強したはずなのですが、金融はわからないなあ、という危機感がようやく芽生えた最近。
金融市場も、穀物の先物相場やバイオエタノール用の穀物価格で日本の農業とリンクしているはずなのです。
でも、わからないし、考慮する枠組みがない。

専門(といえるかは大いに疑問ですが)のミクロ経済学は、限定された状況での個人や企業一つ一つの行動分析を行う学問。あくまで「限定された」状況の中なので、与件が変われば、行動も変わってしまうのです。与件の大きな変化・・・それが最近の巨大な財政政策でしょう。
しかも、こうした政府の介入は、今までの「市場に任せればうまくいく」的な経済学の思想と矛盾しています。いったい何が起きているのか?


内容は「金融危機の原因を学問と現実で読み解く」という感じ。
著者は慶大経済の教授。一般向けの本。海外の論文やシンポジウムの内容紹介が中心なので、専門家には物足りない一冊でしょうが、知識のない身としてはわかりやすく、非常に興味深い一冊でした。

前半は、学問的な危機の発生メカニズムの解明。
後半は、サブプライム危機の発生の概説。


①管理通貨制度導入以降の経済では、「信用」によって「紙が金に化ける」ため、どうしてもカネ余りの状況にならざるを得ず、あまったカネを投資する主体が発生するため、実需と乖離した価格形成(=バブル)が必然的に発生する。

②バブルやその崩壊という「不確実性(発生が確立では予測できないもの)」においては、一度発生した動きが増幅する危険性を秘めている。これに経済のグローバル化が加わると、ショックは全世界に広がりうる。

③加えて、金融市場の制度設計上に経済の動向を過度に反映させる仕組み(時価会計など)が採用されたこと、不確実性をリスクとして統計処理した制度上の欠陥が組み合わさり、今回の危機が起こった。

④今後、金融制度の見直しが起きることは確実だが、時価会計の見直しの議論を見てもわかるように、価格シグナルの扱い方をめぐっては、たえず循環が繰り返されるだろう。

てな感じ。


「経済も経済論争も経済学も、循環する」という発想が、すごく新鮮。
確かに、農業もそうです。

経済学って、積み重なる学問じゃなくて、きっと回る学問なんですね。







2009-03-14

『好かれて尊敬されるあの人の聞き方・話し方』(内田賢司/明日香出版社)



「正面の理、側面の情、背後の恐怖」



「初めて読む、話し方の本」という印象。
内容は基本的かつ初歩的。いろんな本に載っている知識をがっと集めた感じ。

・交渉に強い人は日ごろから鍛えている

・・・要するに日々の人間関係は「コミュニケーション」の実践の練習場なのです。そこに人がいればその場はゲームなのです。日々の会話の中で、自分の向上を目指し、交渉に挑戦する姿勢、それが大事、らしい。いや、コミュニケーションに限らず、大事です。


それを再認識しただけでも、400円の価値はあった、かな。

知識じゃなくて、大事なのは体験なのですね。本を書くにも。


『ウケる技術』(水野敬也,小林昌平,山本周嗣/オーエス出版社)



コミュニケーションはサービスである。



・・・すごく、よく作られた一冊。
タイトルは一発芸のためのネタ集みたいなイメージですが、内容は高度。
というか、本当にビジネス書漬けされている人が書いてる。。。

本質的な内容は「コミュニケーションの教科書」。コミュニケーションの中で主要な6つのパターンを抽出し、ケースとして紹介しながら、それに付随する形で必要な38の技術を解説しています。「意識的に覚え、無意識的に使う」ことを目的とし、最後には38のスキルを4つにカテゴライズし、チェックリストまで作ってしまう丁寧さ・・・やりすぎです。著者は大手広告代理店&外資系トレーダー&ストリッパーという(たぶん)無名の3人。この組み合わせとこの内容は、すごい均衡ですね。

・・・と暗黙知を(うやうやしく)形式知にする過程にしきりに感動しきりだったのですが、見る人が見れば、当たり前の話ばかりなんでしょうね。こういう本は、著者と読者の経験の差が価値になるもの。著者はきっとすごい経験をしてきた人なのでしょう。といいつつ、「攻めすぎじゃね?」と思うのは、私の経験不足が原因なのかも???





『道は開ける』(D・カーネギー著, 香山晶 訳/HD双書)



how to stop worrying and start living



原題を直訳すれば、「悩むことをやめて、いきいきとした生活を始める方法」でしょうか。

『人を動かす』と共に、有名なD・カーネギーの著作。
この二冊しか書いてないのかと思いきや、彼はほかにもたくさんの本を書いてたんですね。
が、この二冊が残った、というのが訳者の巻頭言。詰められた情熱が、違うのです。


大学卒ながら、ゴキブリがうごめく極貧生活の中で暮らしていた若き日のD・カーネギー。
ある日、思い立って、仕事をやめ、自分のやりたい仕事として散々断られた挙句、ようやく探し当てたのが、YMCAの夜間学校の「話し方教室」。純粋に「無駄なく、スキルを積みたい」という学生のみが参加する教室。意味のない、つまらない話なら学生はすぐに出て行ってしまう・・・。そんな講座のために、彼が自ら作ったテキストがこの本。

書かれていることは「一日一日を生きよ」(過去や未来の心配をしても、生きているのは居間でしかない)、「悩みの原因を突き止めろ」など、基本的な内容なのですが、思えばこれがそんな「基本」を形作ったのでしょうね。そう考えるとこの類のマーケットの今日の発展ぶりには目を見張るものがありますね。


「現在に、自分に、与えられたものに満足しよう」


そんな思想が見て取れます。

基本的に、悩むのは「今」を見れていないから。自分がわかっていないから、なのです。



「自己啓発本は、ある時期に卒業、という類のものではなく、定期的に読んで自分の変化を確かめるものなんだ」

ということで、自己啓発本も、いろいろ読んでみようという最近です。
といいつつ、読むのはやっぱり古典ですけど。









2009-03-10

『「知の衰退」からいかに脱出するか? 』(大前研一/光文社)



「あなたは地球を商売の道具にする一方で、この地球に何を返していますか?」



日本人よ。お前らはバカだ。いや、個人としてはそれなりに賢いかもしれないが、この国自体がバカなのだ。政治家も、官僚も、マスメディアも腐ってる。というか時代遅れなんだ。俺は昔からこの状況に警鐘を鳴らして一時は政治家になってやろうと思ったが、お前らはバカだから俺のプランを理解できず、いまだにバカな政治家の下に、あくせく働かされている。アジアのほかの国では俺の考えが受け入れられ、発展しまくってるっていうのにな!ジャンプが悪いんだ。別にゲームが悪いんじゃない。日本は間違いなく没落する。この腐った国から、IT・英語・ファイナンスを身に着けて、一人ひとりが抜け出してほしい。必要なのは古典なんかじゃないんだぜ。俺はそのために大学を作ったんだよ。


という感じ。
基本的に「日本国民啓発書」ですが、なぜか「大前研一の半生」にもなっているという不思議な構成。
要するに、それだけ熱意を持って書かれているということでしょう。

大前研一って、もともとは原子力工学の科学者だったのです。早大理工→東工大→MITと進んで、政府のお抱え研究者になりかけてそんな自分の将来にうんざりして、マッキンゼーに渡った、というところまでは知っていましたが、その後はしらなんだ。偉い人ですよね。これだけ世界中で仕事しながら「日本のために」働いてるんですから。

政治家や官僚の無能振りを見るに見かねて政治家になろうと志したが、問題の本質は国民がバカだった、というお話。
だから本を書いて、学校を作って、「分かる人だけでもいい」と活動している、らしい。

「いろいろわけの分からんことを語る、頭のよさげで無内容な人」というものすごく穿った見方をしていたのですが、一冊も著作を読まずにそんなイメージを持つ自分こそ「バカ」ですね。

こういう人だったんだなあ、と彼の半生が透けて見え、多少感慨を覚えました。
本心は分かりませんが、非常に分かりやすい生き方。考えるだけでなくて、実行し、失敗し、成功し、次にどんどん進んでいる。考えることとやることには無限の隔たりがありますから、これは本当にすごいもんです、ね。

フローは無課税にして、ストックに課税する、とか経済学部的には萌えるのですが、そんなアイデアは昔から提案していたんですね。すごいもんです。

・経営もwikiになる
・アウフヘーベンできる仕組みがリアルにはなく、ウェブにはある
・④できる人間を連れてくる、のがリーダー
・どんな国からも学ぶべきである
・21世紀の教養とは、実践型の知識であり古典ではない
・サイバースペースの理解が必須

いろいろ「へー」と思いました。


ただ、大前研一だから、これでいいのです、よ。

政策の成果は歴史が評価するしかない。

どんなエレガントなモデルで、ずば抜けた政策を作っても、理解されなければ実行されない。実行されなければ意味がないのです。理論だけでなく、理解してもらうことも、実行をきちんと促すことも、結果を監視することも、それを評価して・・・といろいろやることがあるんだなあ、と考えると多少欝ですな。ビジネス的な政策って打てないんでしょうか。


「そうだ、僕はユニークな生き方をしよう」が本書の副題ですが、本書に紹介されていることの実践は決してユニークじゃないんですよ、というのが著者の主張なのになあ、とか思ったりしました。繰り返すようですが、主張には基本的に賛成で、言うことがないのです。オオマエケンイチモードになってしまってはいけないのですが、理解できないのか、と馬鹿にされるのは悔しいのです。その辺、いやらしい書き方かもしれませんね。


amazonによれば、初版は私の誕生日という運命的な一冊。
たしかに、それぐらいのインパクトはあったかも。






『マネー力』(大前研一/PHPビジネス新書)



ファイナンス、マジでやらないと、やばいかもしれない。



お前ら、国債残高がGDPの2倍近くある国の通貨なんて持ってていいのか?円はお金じゃなく、単なる地域通貨なんだよ。常識的に考えて規律のあるユーロのほうが信頼できるに決まっているだろ?高度経済成長期とその後のバブルに侵されて、日本はすべてが腐ってるんだ。大学の教育なんて無意味。これからはITと英語とファイナンスを勉強しないと、気づいたら負け組みだぞ。

・・・てな結論。後半は自分のBBT大学の講座紹介なのでちょっとがっかりですが、「本当にそうですよね」という感じ。基本的に、賛成です。

ユーロのみが規律ある国際通貨であり、今後はその価値を増すはず、というのはそれだけで考えれば確かにそのとおり(財政赤字がGDP3%以下、債務残高GDP60%以下でないとユーロを導入できず、もし離脱すると通貨の信用が極度に落ちる可能性があるので、結果的にどの国も財政規律を守り、通貨価値が安定しうるということ)ですが、柔軟な財政政策が行えないというデメリットもあるわけですから、一概にはいえないはずです。まあ、財政政策の有効性を疑うなら確かにポートフォリオ理論的に、合理的ですけど。

と細かいことはいいとして、「国民よ、賢くなれ」というのが本書のメッセージ。
提案はミクロであればミクロなほど意味を持つと思っているので、これはいいですね。
勝間和代は大前研一である、と書いてあった記事をどこかで見ましたが、これを読む限り、本当にそうでしょうね。


思ったのは、「ああ、見ている層が違うんだろうなあ」ということ。
いわゆる「ファイナンス」の視点なんでしょうか。自分の頭に、こういう考えができるソフトウェアが入ってないのです。見えないものに毎日翻弄されているようで、最近、とても気持ち悪いのです。経済理論に基づく政策提案はそれなりに理解できるのですが、はっきりいって、それ以外は理解できないんです。。。すみません、ミクロ経済学だけやればとりあえず経済学部と言えると思った自分が愚かでした・・・。ということで、将来の勉強の仕方を変えますね。


驚かされるのは、彼が世界各国の現状を生で見て、体験として語っていること。
理論がわかり、現実が見え、そこから自分で考えられる、というのは基本的ですが、王道ですね。

そういう風に、考えられるようにならないとね。











『農業政策』(豊田隆/日本経済評論社)



経済学的に農業政策を記述する。



そんな印象の本。さっと読み終わるはずが、ずるずるとかかってしまいました。

グローバル化の中で、農業の非市場的な価値も考慮しながら、世界や日本の状況を整理した本。多国籍企業アグリビジネスから、EU・アメリカ・日本の農業政策の対比、日本の農業改革、世界の環境政策・・・などなど、扱うトピックが多く、とにかく情報量が多い。

ああ、こんな感じだなあ、というのが読後感。
「東アジアと共生する農業・環境・食料政策」という結論を持ってきているあたりが新しいか。ただし現場に即した根拠があるわけじゃありません。

純経済学的に考えると、確かにこういう結論になるんです。が。

情報量の割に、何か空虚な印象がぬぐえないのはどうしてなのでしょうか?
経済学で計れないものを無理やり経済学で考えているような気がしてしまう。。。
といいつつ、そうしてくれないと読めないのは不幸なものです。

必要なのは、政策でも政府でもなく、農業者でも消費者でもなく、企業なのかもしれません。ビジネス。





以下、メモ

・ドーハ・ラウンドの日本政府モダリティ案は極めて合理的
①農業の多面的機能
②食料安全保障
③農産物の輸出入ルールの不均衡是正
④開発途上国への配慮
⑤消費者・市民社会への配慮

・アメリカでは、米の生産費の71%が財政補填
・地域開発政策の基本理念はステープル政策
輸出向け一次産品を交換しながら経済発展を目指す
・麦作面積は50年の178万haから17.5万ha(73年)に減少
・米国サンキストは家族型農業者が所有する農協


2009-03-02

『ツァラトゥストラはこう言った 上/下』 (Friedrich Nietzsche (著), 氷上英広 (訳)/岩波文庫)



「あなたがた創造者たちよ!この『・・・のために』を忘れることだ。こうした『・・・のために』『・・・の目的で』『・・・の理由で』などでは決して行わないということを、まさしくあなたがたの創造の徳は要求しているのだ。こうしたいつわりの小さな言葉に対して、あなたがたの耳をふさぐべきだ」



「教養豊かな知識人」に憧れて、手に取った一冊。
話の折にニーチェが出てくるとわからなくなるし、はるか昔に友人から紹介されてもいたので。

よく分からないなあ、というのが感想。
が、すごいことだけは分かる。考えすぎ、詰めすぎ、構成しすぎ、分かりにくく書きすぎ。でも、すごい。


きちんと理解できない。たぶん1%も読めてないんだろうなあ、と。ドイツ語も分からないし、ゆえにルター版の聖書も読めないし、ショーペンハウアーも知らないし。教養を深めるということは、本当に暇な人か、頭がよくて余裕がある人にしかできないことなんですね。

超人、永劫回帰・・・もっと自然に、楽しく、何度生きても良いように生きる、みたいな概念はそれとなくわかるのですが、そんなのは解説書を読めばいい話。
ニーチェ本人がよく分からんのです。

何のためにこれを書くのか。彼は誰に何をしてほしいのか、何がしたいのか。
これを書くことで、あれだけストイックに思考する彼の何が満たされたのか。
どれだけの勉強量と、思考の鍛錬をしているのか。
そんなに、やすやすと書けるもんじゃないんですから。ありえない切れ味ですよ。


きっと哲学をやるよりも、子育てするほうが、人間についてよく分かるんでしょう、ね。
昨日たくさんのちびっこと触れ合って、すごく思いましたとさ。




『恋愛投資概論』(Ferdinand Yamaguchi/ソフトバンククリエイティブ)




「恋愛は投資である」



本当に、そういう本。じゃあ、リスクとは何で、リターンとは何で、レバレッジとは、デイトレードとは・・・と想像が膨らみますが、本当にそういう書き口。

人間生活をビジネススキームの中で記述する、というのは、よくある話。
まあ、わかりやすくて面白いんですけど、本当にそれだけなんですよね。。。

農業関係には、こういうのが一冊あってもいいのになあ、と読んでみたのですが・・・なんだか読む前の印象以上の何かは得られませんね。

著者は男性ですが、きっと女性のほうがこんな視点なんじゃないのかなあ、と思ったり。

銘柄ごとのイラストの「それっぽさ」はすごい。





『お米は生きている―自然と人間』(富山和子/講談社)



「わたしたち日本人は、お米と大のなかよしです」



子供向けの、日本のお米についての本。
第42回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書(小学校高学年の部)。

「日本人とコメ」というテーマで、先史からのコメ作りと社会に与えた影響の紹介から、多面的機能、現代の農業・環境問題まで、幅広く扱っています。

「難しいことをわかりやすく」書いてある・・・と期待して読んだのですが、わかりやすいものの、難しいことが書いてあるかはちょっと疑問です。教育にとって重要なのは、日本の農業が大事であることを刷り込ませることではなく、自然に感じられるようにすることなのではないでしょうか、などと思ったり。

95年に初版。ガット・ウルグアイラウンド合意と同年ですから、そういう意図があったのでしょう。
なんだか、ね。