2008-01-19

『城山三郎全集〈第1巻〉男子の本懐 』(城山三郎/新潮社)













好きな人ができました。


・・・井上準之助です。

「金解禁」を断行した蔵相で、それがきっかけで血盟団事件で暗殺された政治家・実務家。
それぐらいしか知りませんでしたが、国の未来を描き切る構想力とそれを実現させる断固とした信念、それを裏打ちする知識と能力を磨き続けた、度量の大きな政治家だったと知り、胸が熱くなりました。


僕はかねがね尊敬する人として服部正也をあげていますが、もう一人は彼、というぐらい凄い。




時は第一次世界大戦後の日本。戦後一時停止された金本位制への復帰が経済的な課題となっていました。金本位制とは政府が発行したお金は金(GOLD)といつでも交換します」という制度。逆にいえば、持っている金の分しかとお金を発行できない、という制度です。金と交換できることで、(当時の日本のような弱小国でも)通貨の価値が安定し、信用され、貿易が円滑になります。また、お金の発行量が金に依存しますから、国内の物価も安定します。前者は産業のために、後者は国民生活のために必要なのでした。

その金本位制復帰に必要なのが「金解禁」(=金の輸出輸入の自由化)なのですが、国内では猛烈な反対が起き、実施は困難といわれていました。それは不況だったからです。当時は戦後恐慌、震災恐慌と大きな不況が続く低迷期。不況期には政府が公共事業を行い、需要を生み出す必要がある(という考え方が)ありますが、金本位制ではそれが困難になります。それは発行通貨量が持っている金の量に依存するために、政府が自由に国債を発行して資金を調達することが妨げられるからです。国策が選挙で選ばれた政治家の決定に委ねられる以上、公共事業を減らし人気を落とす政策は選挙で負ける可能性があるため、不人気で誰も行おうとしませんでした。

加えて井上らは旧平価での金解禁を志向していました。平たくいえば、高い価値のままで円を維持しようということです。要は実質円高に持ち込もうということです。これは大きく2つの理由があり、旧平価のままであれば議会の議決がいらなかったこと、円高による輸出産業の国際競争力強化を目指したこと、があげられます。前者は、不人気な政策なので議会では可決されないと考えていたための戦略で、後者は、井上が国内産業の構造改革の必要性を痛感しており(円安で輸出が不当に拡大したり、恐慌の特別措置で産業がぬるま湯体質になっていたため)、ある種のショック療法によってそれを達成しようとしたためです。

しかし、旧平価での解禁を行うためには、インフレを抑えて円の価値を上げる必要があります。そのためには政府はなるべく予算を減らさなければなりません。これは不況を拡大させることを意味します。しかも無事金本位制に復帰したとしても、しばらくは円高で輸出が伸びず、更なる不況になりかねません。

もう一点だけ井上の考えを述べると、金本位制によって、軍部の独走を食い止めようとしたことがあります。当時は政治に軍部が台頭してくる時代(金本位制復帰翌年が満州事変)。軍備拡張は軍事予算の増加によって実現しますから、金本位制によって財政に縛りをかけ、結果的に軍事費を削減させることで軍部独裁を防ぐことを考えたのです。さらに言えば、前述の旧平価復帰の構造改革による産業競争力強化とあわせて、軍事力ではなく工業力で日本の経済成長を達成させようとしたのです。




・・・と、やや前置きが長くなりましたが、この本はその井上と当時首相だった浜口雄幸を主人公に、生い立ちから、死ぬまでを描いています。共にに上記のような構想を抱き、世論の反対にあいながらも緊縮財政・金解禁を断行、結果的に暗殺されるという一連の流れ。2人とも本当によく勉強し、左遷されてもめげず、常に国家のことを考えそれを信じて生きていくという様がまさに「男子の本懐」という印象。


おそらく主人公は浜口の方なんでしょうが、井上がとても好きです。

1、病気がちの少年時代
2、健康を大事にする
3、家庭を大事にする
4、勉強を大事にする
5、(旧制)二高→帝大である

「自分ハ日本ノ社会ニ何事カヲナサシ得ル事ヲ確信スルナリ。我身ヲシテ社会ニ有益ナ事ヲナサシムルモ又否ラセルモ、全ク御身ニ属スルナリ。御身ハ第一ニ我身ノ為ニ第二ハ社会ノ為ニ、健康ヲヨクシテ我身ウィ助クルノ義務アリ。又斯クノ如ク天帝ガ御身ヲ生ミシモノナリト信スルナリ」(p,74)

「常識を養うに読書の必要はないかもしれぬ。そしてまた日常の業務を処理して行くのにも読書の必要はない。しかし、人をリードしていくには、どうしても読書しなければならぬ」(p,124)


彼は、その人気と実力があだになり、一時ニューヨークへ左遷されています。恨みながら、挫けそうになりながらも勉強と語学の鍛錬を欠かさず、己を磨き続けます。その中での一言。共感です。こうした積み重ねがあったからこそ、たとえ世論の反対があったとしても決して信念をまげることなく、自分の信念を押し通せたのでしょう。国民の信頼が得られない政策は悪という考え方もありでしょうが、経済はわからないものです。少なくとも長期的な経済運営に関しては(納得させるだけの説明を十分したうえで、ですが)知識を持った個人に委ねるべきだという考えは筋が通っている気がします。それが実務家の役割であり、専門家として学ぶ機会が与えられている意味だと心底理解しました。


国士的な、没個人的な生き方をしそうになる自分ですが、自身の健康と家庭の維持の上に、社会への貢献を位置づけるという視点は持っています。そんな生き方を実践している彼は、本当に「こうなりたい」といえる人間ですね。




ちなみに、本書は「官僚が好きな本」の定番。『官僚たちの夏』『坂の上の雲』『小説日本銀行』と(加えて、個人的には『ルワンダ中央銀行総裁日記』)と読んで、やはり官僚に向いているなあというのが実感です。

1 comment:

Unknown said...

私は2007年の死去まで、恥ずかしながら城山三郎さんを知りませんでした。
夏に読もうと『落日燃ゆ』(新潮文庫、1974年初版)を買ったのですが、まだ読めていません。
城山さんが亡くなったときの評伝もきちんと読んでいません。

ですから読み筋に自信はありませんが、『男子の本懐』も『落日燃ゆ』も、確か『毎日が日曜日』も、使命に誠実であった有能な官僚や商社マンが挫折する悲劇ですよね。
日本倫理思想史を専攻する私には、公僕はお金も名誉ももらえない、「公僕に救済はない」という事実を突き付けているだけのような気がしてなりません。
家族や健康や教養に気を使った事実も、城山さんのテキストでいえば、悲劇性を増す効果を上げていると思います。
あえていうならば、殺されて、“Japan lost the best and faithful public servant,”と弔電をもらって、小説に表現されることが救済というしかありません。

なぜ、何のために、官僚やビジネスパーソンや、それを目指すみっきーさんたちは、城山さんの作品を読むのでしょうか。
お考えを聞かせていただければ幸いです。