地下鉄東京メトロ千代田線乃木坂駅から徒歩5分。
六本木ヒルズと東京ミッドタウンが見える一等地に不思議とあるのが青山霊園。
つまり、お墓です。
入ってみると、あるわあるわ教科書に出てきた人の墓。
西郷隆盛、小村寿太郎、加藤友三郎、犬養毅、吉田茂・・・
日本史選択者としてはそれだけでお腹いっぱいです。
前置きが長くなりましたが、1932年の今日は血盟団事件の日。
井上準之助の命日ということで、お墓参りに行ってきたのでした。
お昼過ぎに行ったこともあり、もうすでにたくさんお花があがっていました。
お墓は、個人の名前が彫ってあって。
なんだか作り物のようで興ざめでしたが、隣に植えてある木が立派で、急に年月を感じました。
最近、自分の中で井上準之助がちょっとしたブームです。
まあ、そうじゃなきゃお墓参りなんて行きませんよね。
彼が凄いのは、金解禁のような(現代から見ても)判断の難しい経済問題を、果断に実行した姿勢。
当時の世間からは不評です。でも、まったく迷っていないんだから驚きです。
むしろ、全国に講演に回って世間の人に説明して、説得して回っている。
その意思の背景には、知識と経験に裏打ちされた、日々の努力がある。
肌で国際情勢に触れて、頭で経済学を学んで、体で国際経済を実感して、
とことん「日本はどうすべきか、そして自分は何ができるのか」を考えた結果が彼の答え。
殺されたのは、本当に本当に残念です。同じ国民として、悔しい。
以前頂いたコメントで「なぜ、城山三郎が読まれるのか」という質問がありました。
いろいろ考えていましたが、個人的には「正しさとは何か」を問うためだと考えています。
城山三郎にしろ、司馬遼太郎にしろ、登場するのは熱いオトコたち。
何か大きなもののために自分を投げ出す彼らは、意気込みとは裏腹に、大抵世間から認められません。
そして、失意のまま、不幸にして死んでいく・・・そんなところで小説は終わります。
が、現実はそこで終わらないんです。
彼らの行動は、現代から見ていかなる評価を下せるのか。
正しいのは世間であったのか、大勢の人間が認めることこそが正しいのか、正しいとは何なのか・・・。
大学にいると、「正しさ」や「正義」の枠を仮に定めて、それを目指してしまいがちなもの。
しかし、それらはあくまで相対的なもので、常正しさを問い続けることこそが「正しい」のだ
・・・というのは無難な解釈でしょうけど、そんなことを思ったりします。
この人は、いったいどんなことを考えていたんだろうか。
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